HISTORY

 

古き路地に新たな路地

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池之端の歴史​

 かつてこの地域は根津神社をはじめとする寺社仏閣と武家屋敷が多く存在し、そこに出入りする職人たちなど人が集まる場所でした。

 この近くには巣鴨から不忍池を通る藍染川が流れており、赤札堂創業の約100年前にあたる1921年(大正10年)に暗渠化の工事が始まりました。元々この川の上流に紺屋など藍染を業とする者が多く、水源が染井であるため、また、二つの川が合流することから逢初川と呼ばれるようになったそうです。

 創建時より寛永寺は藍染川に流れる豊かな水量を活かして花畑を育てていました。これを人々は愛し、江戸時代に入った後この土地を「上野御花畑」と称したようです。これを由来に、1872年(明治5年)上野花園町が起立。軍医で文豪でもあった森鴎外が「舞姫」を執筆するなど多くの人々に愛され続けました。

 1967年(昭和42年)、住居表示に関する法律に基づいて池之端3丁目へと改称され現代に至ります。

 

 

路地裏で育った文化​

 花園アレイが位置する池之端には旧来多くの路地があり、非常に人間関係の濃い、他人を意識せざるを得ないコミュニティを作っていました。この地域は商業が発達した土地なので、横丁に入ったところでも長屋式に連結した町家がみられます。これは通りからみると店が立ち並び裏側に各戸共通の路地があり、この縦横無尽にのびた路地が地域の文化形成を後押ししていたようです。

©Satoshi Asakawa

 

 

花園寮から花園アレイへ

 1967年(昭和42年)1月1日に上野花園町が池之端3丁目に改称されたその3年後の1970年、赤札堂社員寮として花園寮が建てられました。地域の生活を支える赤札堂の社員と共に歩み続けて50年間、2020年、新たなアレイ(路地)を、そして文化を育てるべく花園アレイとなりました。